6s発売前夜
iPhoneを買ったばかりの頃、多くの人と同じように僕はアプリに夢中になった。
生産性、何て言葉が流行り始めた頃だった。
使いもしないメモアプリやevernote連携のアプリやそして大量のゲームを購入していた。
いわゆる意識高い系に近かったろう。
代替わりして5sに乗り換えたくらいからそのアプリ熱はぱったりと冷めた。
と言うより、結局スマホで出来ること、やることが自分の中で定まってきて、それに対応するアプリがあれば十分、という状態になったのだろう。
app storeをのぞいても興味を惹かれるアプリもなく、トップ画面はほとんど固定されていった。
色々なものが変わって、あるいは変わっていなかった。
foursquareは名前が変わっていた。
でもquickinは相変わらず。
ライフログ系のアプリは多いが、movesはまだ存在していた。
幾つかのアプリを増やし、整理した。
気分はまるで机のレイアウトを変えたときみたい。
どうせさして変わらない。
ただの気まぐれなのはよくわかっているが、少しでも何かの習慣が自分につくことを期待して。
敗者はいつだって何かに期待しているんだ。
書き初め
僕は悪筆だった。故に、書道ってやつが嫌いだった。
あるいはそれは、小学校の頃に書道の授業を受け持っていた先生が苦手だったから。というのも理由としてはあるのかもしれない。
教師に限らず大人たちは、子どもたちと親密になるために名前でからかうという方法論を得てしてとりがちだけど、数少ない持ち物である名前を馬鹿にされて受け流せる程彼らは大人じゃない。
だからそれは悔しさとか恥ずかしさとか、そんなよくない感情に紐付いて彼らの思い出に蓄積していく。
少なくとも僕はそうだった。故に、その先生が教えていた書道の時間も嫌いだった。
ま、元から字が下手くそだったのもあると思うけれど。
そして残念ながら、タイピングがどれだけ早くなろうとも字は悪筆のままだ。
それでも儀式としてこういうものは必要だ。
それはあるいは、多少の気恥ずかしさをカバーするという意味でも。
そんなわけでこれがここでの書き初めだ。
今までいろんなSNSで駄文を書き散らしてきたけど、今は、これからはそれを蓄積していきたいと思ったんだ。
どれだけ続くのかは、僕にも定かではないのだけれど。